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語彙

ケガレ

モチーフ
穢れ・禁忌・境界

ケガレ(穢れ・汚れ)とは、死・出産・血・病などに触れることで生じるとされる状態をいう。人から人へ移り、儀礼によって祓われる。が「避ける」という行為を指すのに対し、ケガレは避けられる側の状態を指す。

この語には定説がない

先に断っておく。ケガレが何であるかについて、民俗学に合意はない。 一九七〇年代以降、複数の説が並立したまま今に至っている。以下、主要な立場を並べる。

本項は波平の整理を軸にする。 理由は、ケガレを独立した観念として扱う立場が、怪談における恐怖の機構を最もよく説明するためである。ただし上記のとおり、これは唯一の見方ではない。

ケガレは移る

ケガレの第一の性質は、伝染することである。

死者が出れば、そのケガレは死者だけに留まらず、家族や近い親族に及ぶ。遺族が一定期間、外を出歩かず、人を訪ねず、招かないという禁忌は各地に見られる。葬儀に参列した者も、程度の差はあれケガレを受ける。

だから儀礼が要る。壱岐郡勝本浦では、死のケガレを三段階で清めたという。墓地で僧が経を唱え、帰路に立ち寄る堂で清めの酒を飲み、最後に海岸へ出て海水で身を清める。墓地から平地へ下るにつれて、ケガレが段階的に落ちていく。

そして注目すべきは、時間ではなく儀礼の回数でケガレが薄れるという点である。放っておけば消えるものではない。無縁仏やミサキと呼ばれる死霊が長く人を悩ますのは、儀礼を受けることが少なく、ケガレの度合いが強いままだからだとされる。

黒不浄と赤不浄

ケガレは一様ではない。死に関するものを黒不浄、出産や月経に関するものを赤不浄と呼び分ける地方がある。

両者の儀礼は似ているが、決定的に違う点がある。死のケガレは神事から完全に切り離される。 葬式を出す家では「かみ」と名のつくものすべてに白紙を掛け、死のケガレが神々にかからないようにする。

ところが産のケガレには産神が付く。産小屋に祀られ、安産を守る神として各地に社がある。死には目隠しをするが、産には神が寄り添う。

食物にも差が出る。海産物は吉事に欠かせず、忌明けを「精進あけ」と呼んで必ず生ぐさものを食べる。だが死に関する儀礼で海産物は避けられる。 今日の都市部でも、葬儀の汁物に鰹だしを取ることさえ避ける例がある。一方、出産に関わる儀礼では海産物はむしろ進んで用いられる。

恐ろしいのは、越えることである

ここが最も誤解されやすい。ケガレそのものが恐ろしいのではない。

波平はこう指摘する。ケガレはそれ自体が人にとって恐ろしいというよりも、むしろそれがケやハレの場へ持ち込まれることが恐ろしいのである、と。

証拠は、人々のふるまいのほうにある。近しい人の死のような、生きていれば避けられないケガレには、人は進んで接する。そのうえで一定の作法によって祓う。災厄が降りかかるのは、ケガレに触れたからではなく、祓い方を誤ったか怠ったかして、日常やハレの場にそれを持ち込んだからだと考えられている。

これは逆さ事の構造と同じである。葬送の作法が日常をわざと裏返すのは、二つの領域を混同しないためだ。線を引くこと自体が、ケガレへの対処である。

ハレへの転換

線が正しく引かれれば、ケガレは反転する。

漁村では、海にケガレが入ることを厳しく避ける。それでいて、漂着した水死体は必ず拾って祀る。最も強い死のケガレを帯びたはずのものが、船と漁師の守護神、豊漁の神として迎えられる。エビス神である。

拾えば幸いが良く、見捨てれば幸いが悪い——そう言われ、出会えば必ず拾ったという。

波平はこれをケガレのハレへの転換と呼んだ。ケガレとハレは、いずれも「特殊で異常なもの」として広義の神聖観念に含まれる。日常であるケに対して、両者は同じ側に立つ。だからこそ、条件が揃えば入れ替わる。

の項で見た、最も清浄な忌火と最も避けられる忌屋の火が同じ字を持つという事実も、この構造の言い換えである。

怪談での用法

因習系と呼ばれる怪談の多くが、ケガレの機構で動いている。

コトリバコは、封じられた箱が納屋から持ち出されたときに動きだす。リョウメンスクナは、寺の奥の密閉された部屋にあった木箱が、外で開けられたときに祟る。どちらも、呪物そのものより、それが場所を離れたことが恐怖の起点になっている。

そして両者に共通するのは、祓う作法が失われていることだ。民俗のケガレには必ず出口があった。三日、七日、四十九日。海水で身を清め、神官の祓いを受ければ、ケガレは落ちる。ところが怪談の呪物には、その出口がない。

近代の怪談は、ケガレの入口だけを受け継ぎ、出口を捨てた。 恐ろしさはそこから来ている。

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出典

波平恵美子『ケガレ』講談社学術文庫、2009年(原本は東京堂出版、1985年)。ケガレをめぐる諸説の整理、ケガレが場を越えることこそ恐れられるという指摘、および水死体をエビス神として祀る信仰をケガレのハレへの転換とする見方は、同書による。

波平恵美子「通過儀礼における『ハレ』と『ケガレ』の観念の分析」『民族学研究』40巻4号、1976年、350-368頁。壱岐郡勝本浦における三段階の清め、黒不浄と赤不浄の区別、食物における吉凶の使い分けに関する記述は、同論による。

本項に挙げた各論者の説(柳田・松平・桜井・薗田・宮田・岡田)は、いずれも上記の波平の著作による整理を参照したものであり、各原典にあたっていない。

類話

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