カイダンペディア

典拠

両面宿儺

初出
720 日本書紀 巻第十一 仁徳天皇六十五年条
伝承地
岐阜県高山市 飛騨国。伝承は現在の高山市丹生川町一帯に集中する
モチーフ
鬼・異形・山・供犠

あらすじ

仁徳天皇の六十五年、飛騨国に一人の者があった。名を宿儺という。

その姿は尋常ではなかった。胴は一つだが、顔が二つある。二つの顔は互いに背き合い、頭頂で合わさっていて、うなじがない。手足はそれぞれに具わっている。膝はあるが、膝の裏と踵がない。

力は強く、身のこなしは軽い。左右の腰に剣を佩き、四本の手で同時に弓矢を用いた。

宿儺は皇命に従わず、人民から略奪することを楽しみとした。そこで朝廷は、和珥臣の祖である難波根子武振熊を遣わし、これを誅した。

――以上が、『日本書紀』の記す宿儺のすべてである。わずか数十字。生まれも、名の由来も、討たれた場所も語られない。現れて、討たれて、終わる。

注釈

討伐された悪鬼は千五百年後、菩薩となった。その途中で、伝承は一度、否定をくぐっている。

一 異形という判決

書紀の描写を、もう一度細かく見てみよう。

一つの胴に二つの顔。頭のてっぺんから背中合わせで、うなじがない。手足は四本ずつ。膝はあるが膝裏とかかとがない。左右に剣を佩きながら、四つの手で弓矢を用いる。

この執拗な異形の解説は何を語っているのか。

記紀において、異形と描写されることは、王権に従わないものという判決に等しい。その姿が人の形を外れていることが、討たれるべき理由として意味をなしているのだ。土蜘蛛や国栖も同じくであった。「従わない」ことと「人でない姿」であることが、分かちがたく結ばれている。

しかし、順序を疑ってみる価値はある。異形だから討たれたのか。討ったから異形と書かれたのか。

書紀が編まれたのは養老四年、七二〇年である。仁徳の代から数えて三百年ほど後、中央集権が形をなしつつある時代に、過去の服属戦争が記録された。そこでは、従わなかった者は人の姿を失う。

酒呑童子の項で、鬼が身体の特徴ではなく身分の呼び名であった可能性に触れた。宿儺の場合、それはより露骨である。書紀は宿儺を「一人あり」と書き起こしながら、次の行で人としての形を奪っている。

「掠略人民爲樂」――人民を掠略するのを楽しみとした。この一句で討伐を正当化している。だが掠略されたという人民が誰であったかは記されない。飛騨の民が朝廷に訴えたとも、宿儺が中央へ攻め上ったとも書かれていない。皇命に従わなかった、という一点だけが確かである。

二 その土地では、菩薩だった

飛騨に入ると、話がまるで変わる。

高山市丹生川町の袈裟山千光寺は、両面宿儺を開山の祖として祀る。寺伝『千光寺記』によれば、宿儺は仏法の契約によってこの地に出現し、袈裟山の山頂で妙法蓮華経と袈裟を得て、山号寺号を袈裟山千光寺と定めたという。

討伐された悪鬼羅刹ではない。寺を開いた祖なのである。

丹生川では、宿儺は古くから「宿儺様」「両面様」、そして「両面宿儺菩薩」と呼ばれてきた。武勇に優れた神祭の司祭者であり、農耕の指導者であり、地域を中央集権から守った英雄として語り継がれている。

「中央集権から守った」という一句に注目したい。 書紀が「皇命に従わなかった」と断じた同じ事実が、在地では「守った」と読み替えられている。同じ出来事も、記述する人物の立場が変われば、反転する。

千光寺の宿儺堂には、石像の両面宿儺像を中心に、二体の立像と、円空の彫った坐像が安置されている。

円空は江戸前期の遊行僧である。生涯に十二万体を彫ることを願ったと伝えられ、貞享二年ごろに千光寺を訪れて数年滞在し、飛騨一円で数百体を刻んだ。千光寺には六十四体が現存する。

その円空が、宿儺を彫った。それも二つの顔を持つ姿で、だ。

書紀において、二つの顔は人でないことの徴だった。だが仏像において、複数の顔は珍しくない。十一面観音も阿修羅も、多くの面を持つ。多面とは、一つの尊格が複数のはたらきを兼ねることの表現である。

同じ身体的特徴が、記す者によって正反対の意味を担う。 悪鬼の異形は、仏の相へ移り変わった。宿儺の二つの顔は、飛騨にて聖なる証へと昇華した。

三 偽作と指摘された意味

ここで話が終われば、よくある「敗者の復権」で済む。だが飛騨には、もう一つの声が残っている。

延享二年に飛騨の地誌『飛州志』が編まれた。編者は長谷川忠崇。飛騨の地理・歴史・風俗を体系的に記録した労作である。

『飛州志』には「玄海」という署名を持つ縁起書『千光寺記』が付録されていた。そこには宿儺が救世観音の化身として出現し、山頂から法華経や袈裟、千手観音像を掘り出して「袈裟山千光寺」を開山した英雄であると、在地伝承に基づいて大いに讃えられる。

そのうえで忠崇は、宿儺開山説をせせら笑っている。怪しくデタラメな話に思えるものの、その伝承はすでに長く語り継がれており、物好きな人々がそれをもとに話を装飾して、その土地を神聖で神秘的なものにしようとしただけであろう、と。

さらに『千光寺記』一巻について、元和七年十一月に玄海と署名があるものの、縁起書そのものが後世の偽作だと見ている。

これには二つの意味があると考える。 一つは歴史を体系的に記録する地誌編纂者としてのプライド。 江戸中期の権力者が、在地の民間信仰を鼻で笑って否定したのだろう。

そしてもう一つは、為政者としての「政治的警戒」である。 長谷川忠崇は、父の跡を継いで、飛騨国と美濃国の一部を十七年間にわたって統治した代官だと、『飛州志』を写した岡村利平編『飛騨叢書』にある。しかも父・忠国もまた飛騨国代官であった。長谷川家は父子二代でこの国を治めている。

大和王権(中央)に反逆した異形を「郷土の英雄」として崇め立てることそのものが、慣性を持つことを恐れていたのだろう。だからこそ、そのエネルギーが反体制の勢力へ転化するのを防ぐため、『飛州志』という「公的な記録」を編纂する機会を利用して、為政者の論理(正史)に基づき、徹底的にそれを「ただの迷信」「後世の偽作」として論破・解体しておく必要があったのだと推測する。

それが異形の悪に、仏性を見出した円空の傑作を否定することになったとしてもだ。

時系列を並べてみよう。

『飛州志』が成ったのは、忠崇が飛騨を去るその年である。 十七年の統治の総決算として、この地誌は編まれた。

四 それでも祀られている

代官忠崇の裁定から、二百五十年以上が経った。

千光寺の宿儺堂は今も開かれ、石像と三体の像が参拝を受けている。丹生川では宿儺様と呼ばれ続けている。地元の伝統野菜は「宿儺かぼちゃ」と名づけられ、秋には宿儺の名を冠した祭が催される。近年は、同じ名を持つ登場人物の作品によって、聖地として訪れる者も増えたという。

権力が否定しても、伝承は断ち切られなかった。

つまり、これは伝承の敗北ではない。伝承と考証は、そもそも同じ土俵に立っていないからである。忠崇が問うたのは「誰が勝者なのか」だった。丹生川の人々が問うてきたのは「この土地は誰に守られてきたか」だった。問いが違えば、答えの真偽も別々に成り立つ。

書紀が宿儺を鬼として葬ったのは、中央の記録である。飛騨が宿儺を菩薩として祀るのは、在地の記憶である。忠崇が縁起を偽作と見たのは、為政者としての考証である。この三つは、どれかが正しくてどれかが誤っているのではない。それぞれの立場から、それぞれの”宿儺”が記述された。

千五百年のあいだ、宿儺は三度書かれた。討たれる者として、祀られる者として、疑われる者として。そして今も、漫画にて四度目が書かれ続けている。

異形は判決ではなかった――と、飛騨は千五百年かけて答え続けている。

この話から辿る

このページは終点ではなく、網の結び目である。気になった糸を引くこと。

出典

『日本書紀』巻第十一、仁徳天皇六十五年条。底本は日本古典文学大系本(岩波書店)。宿儺の姿・行状および討伐に関する記述は、同条による。

岡村利平編『飛騨叢書 第1冊』住伊書店、1911年、1頁。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ2) https://dl.ndl.go.jp/pid/765268/1/2 同書は、長谷川忠崇を前飛騨国代官・長谷川忠国の子とし、父の跡職を継いで飛騨国一円と美濃国の料所を管治すること十七年、延享二年三月に転職の命を受けて江戸に帰ったと記す。父・忠国の在任および高山での没年も同箇所による。

長谷川忠崇『飛州志』付録「千光寺記」。岡村利平編『飛騨叢書 第2冊』住伊書店、1911年、448-449頁。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ242) https://dl.ndl.go.jp/pid/765269/1/242 『千光寺記』の内容、宿儺開山説への批判、および同書を後世の偽作とする指摘は、いずれもここによる。

永藤靖「『仁徳紀』の両面宿儺について――隠された英雄伝承」『文芸研究:明治大学文学部紀要』第109号、明治大学文芸研究会、2009年、1-13頁。

飛騨・高山観光コンベンション協会「千光寺」(千光寺監修)https://www.hidatakayama.or.jp/spot/detail_1653.html 。千光寺の現在の伝承、宿儺堂の像、円空の滞在に関する記述は、同ページによる。

馬場あき子『鬼の研究』ちくま文庫、1988年、ISBN4-480-02275-9。鬼が秩序の外に置かれた者を指すという視点は、同書による。

類話

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