交換だから
- 分類
- 来訪・遭遇譚
- 初出
- 2015 2ちゃんねる オカルト板 「死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?」系スレ
- モチーフ
- 禁忌・供犠・ヒトコワ・マレビト・山・村
あらすじ
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警察官の娘で田舎の小学校を4回転校した語り手
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クラスメートのAは村から距離を置かれていた少女で山中の小屋に一人暮らし
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「Aに関わると呪われる」という噂があり、語り手以外は避けていた
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語り手はAと仲良くし、シールを「交換」した
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その直後、AからAの筆箱を奪ったBが突然倒れてけいれん
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大人たちは「もらう」でなく「交換」したから語り手は無事と解釈
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B父が激怒→警察官の父が介入→一家は緊急引っ越し
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別れ際にAは「もう取れない」と不気味な言葉を残す
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Bのその後もAの正体も真相は不明のまま
注釈(朱蜘蛛リリの視点)
本項では、原話がAの描写に用いた語のうち、身体や発達の状態を指すものを引かない。この話の恐怖は、共同体が特定の子どもを「異なるもの」として扱った、その扱い方から汲まれている。構造を記述することと、その扱いを繰り返すことは違う。 以下、Aについては「村から距離を置かれていた少女」として扱う。
先に結論を書く。Aとは山に根付いた神のような存在であり、それをB家が村落に縛り付け、禍福を分配する仕組みを作って村を支配している——と読んだ。
まずこの話を読み終えて思ったのは、「Aよりも、村人たちのほうが怖いだろ」だった。
A自身が洒落怖の肝腎要であるし、人に非る怪異としての一面を持っている。
もちろんそれはそれで恐ろしいのだか、やはり特筆すべきは、そのAの異常性を知りながらも、何かを隠す村人たちの不穏さである。
村落という共同体に、確かな居場所を持ちながら、タブーとして扱われている。
つまり、Aという存在は、村と共存していた(させられていた)のではないか。
果たして一方的に害を為す怪異であれば、駐在さんですら疎まれるような狭いコミュニティに居場所を確保できるのだろうか。 普通なら退治・討伐ないし退散させられるはずではないか?
タイトルにもなっている”交換”というルールの基に、この村では対価を払い利益を得る仕組みが作られていたと推察することは出来ないか。
この村落について、そしてAという存在を民俗学におけるマレビトから、整理してみよう。
(本話は『田舎の呪い』と『交換だから』のどちらかのタイトルでまとめられている)
1. 異界の側面を持つ排他的なコミュニティ
村の特徴として、通常なら傷害罪となる刃傷沙汰も村内で内々的に処理ができる、駐在さんすらも余所者だと排除してしまうほどの免疫システムを持った閉鎖社会であること。
B家が学校にもすぐ顔を出せる、というのもこの村落の内圧を高め閉鎖的なコミュニティとしての解像度を上げている。
犬鳴村というネット怪談をご存知だろうか。特徴として「この先、日本国憲法通じません」という体温が抜き取られた看板を目にしたことがある人は多いと思う。
このように、法律をも跳ね除けるような閉鎖的コミュニティは成立するのか。
それはコミュニティに属する人が納得すればよいだけである。秩序を作るのはわざわざ法律じゃなくても、当事者たちが納得すれば独自のルールでも構わないのだ。
犬鳴村やこの村落のように、法律ではなく人間関係や相互監視によって秩序を保つのは、非公式社会統制といい、即ち慣習や家族・仲間・地域の反応によって成員の逸脱を抑える仕組みだそうだ。
ただし、そのルールをなにも知らない部外者がそこへ入ってしまうと、どんな理不尽を強いられてもおかしくないし、何も助けてくれず、守ってくれない。
そんなコミュニティなど、もはや異界だろう。これは投稿者から見た異界訪問譚としての側面も持ち合わせているのだ。
2. 人口から見る不成立が浮き彫りにする異形の神力
ただ、この村が非公式社会統制として機能するには、人口が多いのではないだろうか。
投稿者によると、小学校の全校生徒が100人程度。投稿が2015年で、投稿時点から30年以上前の昭和が舞台、ということは1985年以前。
そしてオセロ、人生ゲーム、シール交換、そしてキャラものの筆箱、これらが流行っていたことを鑑みると19751980年として差し支えないだろう。1100人ほどだと推定できる。
国勢調査によると、当時の小学校人口は全体の約11%なので、その村落における総人口はおよそ1000
さて、この人口で法律をも跳ね除けるような閉鎖的コミュニティは成立するのか。
ダンバー数という濃密な人間関係を構築できる最大数は150人という数字がある。 仲良しこよしの最適な集団サイズが、霊長類の脳の大きさとその種が維持する群れの大きさの相関から導き出されている。その程度の人口であれば、非公式統制社会が成立しうると考えられる。
今回の投稿において、村の人口はおよそ1,100人ということから、非公式統制社会が成立するような人口ではない、と言いたいわけではない。 しかし、たったの40年ほど前に、警察という国家権力を排除するような排他的かつ閉鎖的な1000人規模の巨大共同体が自然発生するとは考えにくい。
そこには何か強力な力、あるいは超自然的なきっかけがあったと考えられる。
そこで「B家」という存在がすべてを支配するような、暴力的かつ権力的な存在だったのではないか、という推察をした。
先に述べた非公式社会統制は、人口が少ないこと以外にも機能する条件がいくつか存在する。
その一つに、内部の相互依存が高い場合、というものがある。これから推測するに、B家を基本とした集団とそれ以外のいくつかの集団が、「旨味」を基に互いに連結し相互依存をしあっている状態ができていたのではないか。
すなわちAという禍福を生み出す異形の存在を管理し、自分たちを経由しないと恩恵を受けることができない仕組みをB家が作り、それに対価を支払い旨味を享受するその他の人々が依存しあった集団ができていたのではないか。人口が多いにも関わらず非公式社会統制の機能を成り立たせていたという点から、B家の独尊ぶりとAという異形の神力が示唆されていると考える。
3. 民俗学における山の意味
日本人にとって、山とは信仰の対象である。
そもそも普段無宗教ないし信仰を無自覚、無頓着な人でも一年に一度くらいは神に祈るだろう。私は辛いものを食べたあとの腹痛のときよく祈る。それもいざ思い返せば具体的な偶像はなく、ただ”神様”という言葉に祈っているような気さえする。
そんな曖昧な信仰と地続きに、富士山を見ると厳かになる気持ちがあると思う。普段は思い出しもしないのに、いざ目にするととてもありがたく感じる。とにかくでかいからなのか、日本人の心なのか。
その感覚こそが、山岳信仰という信仰形態によるもの、と考える。仏教では山を修行の地とすることが多く、そこから神秘的な崇拝を受ける対象になったのだろう。もちろんでかい=すごいみたいな感覚を濃縮していった結果でもあると思う。
また、民俗学的にも山は特別な存在である。
柳田國男は「遠野物語」「山人考」「山の人生」などにて、山に関する言い伝えを著しているが、これによると日本のどんな地域にも似たような話が残っていて、非常に面白い。
やはり山と平地という一種の区切りがあり、かつ居住地かそうでないかが明確に分けられていた、つまり日常を過ごす人にとっての異界になっていた、という思想が色濃くそして根強く残っているように思われる。
そう、山とは異界なのだ。山中他界観という言葉があるように、死者の霊魂が集まる場として山が存在するという見方すらある。卵が先か鶏が先かわからないが、東北の恐山を筆頭に霊験灼かとされる山々も日本には数多く存在する。
4. マレビトとしてのA
さて、先に触れたAは神様であるという考察について述べたのは、民俗学におけるマレビト信仰からだ。
マレビトとは、マレに訪れるヒトという言葉の意味で、噛み砕いていうなれば、集団の外から訪れる異人、すなわちお客様のことである。ただし以下のような特徴を持つのだ。
①異界から来訪し、神様ないし神様として扱われるヒトである
②多くの場合、(来訪とともに)福や富をもたらす
③丁重にもてなさなければ、災いをなす
ここで、Aに関する話を少し整理してみよう。
①Aの家は山一つ超えた先にある(すなわち、山という異界から訪れている)
②綺麗なシールをくれた(富をもたらした)
③最新の筆箱を奪ったBは「生きてはいる」状態に(死んでいない状態にして、重篤な災いを与えた)
(山という)異界から来訪し富をもたらすが、丁重に扱わなければ災いを与える。あまりにもマレビト信仰における異人、すなわち神様とAとの符合の一致が見られるのだ。この洒落怖は村落民俗における山の扱い方とマレビト信仰のモチーフを踏襲しているように見える。
以上のことからAが山の神様に近い存在なのではないかと考えた。ただし、どんな存在であるのか、どんな神様なのかまでは分かりかねる。
ただ、Aが小学生という存在になっているのは、B家のしわざだと思う。村落にマレビトであるAを縛り付けるときに、村落に来訪する形式として毎日通学させることで、来訪する神としての要素を確立したのではないか。
まとめると
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マレビト信仰と特徴が多く重なるため、Aは来訪する神様のような存在
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閉鎖的なコミュニティの割には人口の多いため、権力者のような表現がされるB家が村人たちを支配するシステムを持っていると推察
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Aはタブーとして扱われながらも、学校に居場所を持っている
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よって、B家が呪術もしくは何かしらの契約をし、Aを村落に縛り付けて甘い汁をすすれる仕組み作りをしている
おそらく村人を人身御供としてAに与えることで、B家もしくは贄を与えた家に富を為すような仕組みになっており、人命のやりとりがあるからこそ、警察の介入を村ぐるみで嫌うのであろう。
Aの家に突如増えていたおもちゃについても、同じ線上で読む余地がある。ただしこれは原話が語っていない領域であり、本項の読みにすぎない。
また、ささやかれた「○○(私)ちゃんは××××(聞き取れなかった)だから、もうとれない。」というセリフはおそらく、”ヨソモノ”という言葉が入るのではないだろうか。すなわち、Aは村落の住人に対してしか、与えることも奪うこともできない存在となっている。そういう契約をB家と交わしているのだろう。
この話から辿る
このページは終点ではなく、網の結び目である。気になった糸を引くこと。
- 来訪する神を辿る — 異界から訪れ、富をもたらし、粗末に扱えば災いを為す マレビト へ。折口信夫が立てたこの概念が、この話の骨格をそのまま説明する。
- 法の外の共同体を辿る — 犬鳴村、杉沢村 へ。国家の秩序が届かないとされる村を、ネット怪談は繰り返し語ってきた。
- 山という異界を辿る — 死者の霊が集まる場としての山、山中他界観 へ。Aの家が山一つ越えた先にあることの意味。
- 差し出す仕組みを辿る — 対価を払って禍福を得る構造は、コトリバコ 一章の供犠と同じ地層にある。
出典
原話は二〇一五年、2ちゃんねるオカルト板の洒落怖系スレッドへの投稿。「田舎の呪い」の題でもまとめられている。
柳田國男『遠野物語・山の人生』岩波文庫、1976年、ISBN978-4-00-331381-7。山を異界とする観念、および山中他界観に関する記述は、同書による。
新保哲「山岳信仰に見る修験道の特色」『文化女子大学紀要 人文・社会科学研究』16、2009年、13-28頁。https://bunka.repo.nii.ac.jp/records/737
「我が国のこどもの数」総務省統計局、2021年5月4日。https://www.stat.go.jp/data/jinsui/topics/pdf/topics128.pdf 1980年における15歳未満人口の総人口に対する割合23.5%を、村落人口の推定に用いた。
Robin Dunbar「Dunbar’s number: why my theory that humans can only maintain 150 friendships has withstood 30 years of scrutiny」THE CONVERSATION、2021年5月12日。https://theconversation.com/dunbars-number-why-my-theory-that-humans-can-only-maintain-150-friendships-has-withstood-30-years-of-scrutiny-160676
Haralambos, M., Richardson, J., Taylor, P., Yeo, A. 『Sociology in Focus』2nd ed. Scotprint, 2008, p.16。非公式社会統制(informal social control)の定義は、同書による。※本項は同書を引く二次資料経由で参照したものであり、原書にあたっていない。
類話
- 犬鳴村
- 杉沢村
- コトリバコ